好きも嫌いも絶対値

好きなことを書いていこうかなと思っています。 頑張るのです。

ドキンとしたことも、イラっとしたことも、結局は同じ心の揺れ。
そういう心の動きを丁寧に掬い上げて、綴っていきたいものです。

感想『クエーサーと13番目の柱』

阿部長編にみられる、大きい物語と小さな物語の関係性について、ロラン・バルトの神話的テキストの議論を整理しつつ述べていきます。

 

①神話的テキストについて

ことわざ・故事成語のように、「AはBである」という大きな物語が存在しつつも、解釈的に、というか本来的な意味としては「XはYである」という意味を表すものを、神話的テキストといいます。

なお書きとして、これは、物語に限らず、表象一般、例えばプロパガンダや服装等、広く、「コード」とされるものにも潜在し得るものです。

広義の「テキスト=意味を表象する形式」に隠された「メッセージ」、とでも理解すると分かり易く、以下ではこうしたテキスト=コードを大きな物語とします。

翻れば、「AはBである」ことを示すだけの物語は小さな物語とされます。

 

②阿部長編に見られる、大きな物語

神町シリーズに位置づけられる『シンセミア』、『ピストルズ』、『ミステリアスセッティング』においても、大きな物語はそれぞれ存在しており、幾多にも及ぶ登場人物による小さな物語が、その大きな物語の構成要素を担っているという構造が看取されます。

神町の織り成す大きな物語は、いまだ完成をみていないので、その存在に触れるだけとしましょう。

 

③本書について

本書の大きな物語は、「引き寄せの法則」です。

解題にもなりますが、これを「AはBである」図式に載せれば、「クエーサーという天体を、宇宙というビッグデータの書換え操作によって、自らの手元に引き寄せ“ようとする”」というものになります。

これを解釈すると、クエーサーの本質ゆえに、「欲望と欲望の対象にみられる、付かず離れずのアンビバレントな関係性=絶対的な距離」を“意味”することになります。

欲望、つまり執着する心は、小さな物語として、本書の中にも、アイドルをめぐるそれとして言及されています。

まさに、この小さな物語は構成要素となって、欲望論への垂直展開への手がかりとなっているのです。

 

表層的には、現代の表象文化をリアリズムをもって料理した小説に見えますが、阿部長編の読解の仕方には、こうした大きな物語への目配せが必要となり、そこにこそ、本来的な面白さが垣間見えます。

 

④阿部長編の楽しみ方

阿部長編が内容的に薄い、現代風を気取ってる、とお思いの方、この大きな物語論を念頭に置いて、お読みになってはいかがでしょうか。

転じて、他の小説の読み方も見方が変わってくるかもしれません。

是非、挑戦してみてください。